早めに続きを書くとか申しておきながら、ずいぶん更新が途絶えておりますが、来月には復活する予定でおります。
引っ越しして、古本を中心に持ってきたはいいものの、なかなか整理できず、風通しのいい天井裏みたいなところに段ボール箱に入ったまま、積み上がっている次第です……。
前回の映画話の続編にはならないかもしれませんが、いましばしご猶予くださいませ。
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戦後の映画というものをほとんど観ることのなかったワタクシ、先日はじめて黒澤明監督の『椿三十郎』(1962年)を観たんですが、入江たか子が出てきたんでそっちばっかりに関心が集中してしまい、本編以上に楽しませてもらいました。すっかり丸くなって「いいお婆ちゃん」って感じでしたけど、このころまだ 50歳そこそこだったんだよな〜。
かの女が83歳で亡くなったのは、阪神・淡路大震災に先立つこと3日、1995年1月12日のことでした。享年83。戦後は1953年の『怪談佐賀屋敷』以降、もっぱら「化け猫女優」としてのみ注目を浴びて不遇だったようですが、しかし、しかし。

どうです、ステキですよね。戦前の入江たか子は女優の中の女優、日本ではじめての近代的な女優として、唯一無二のオーラを放ってたんです。いま観てもまったくカッコイイじゃござんせんか。わたしの永遠のミューズなのです (^_^)v
とくに、このブログの 第2夜 でとりあげた 岡田時彦 との競演作『瀧の白糸』(溝口健二監督/1933年)は、入江の代表作としてしばしばリヴァイヴァル上映されるんで、ご覧になった方も少なくないでしょう。たしかいま、フィルムセンターのロビーにあるパンフレットにも登場してたはず。この作品自体は、女が男に尽くす浪花節みたいなもんじゃねえか、鏡花の作品としても駄作だろうと思わないでもないんですが、それはともかく一刻も早くDVD化してほしいもんである。
---
ところで、いわゆる「スリーサイズ」というものがいつから日本に根付いたのか、わざわざ調べてみるほどの関心もなければ、なんで人がそれに関心を持つのかもわたしの理解の範囲外なんですけど、かの女がデヴュウしたときはそのプロポーションにも注目が集まって、ミロのヴィーナスやアメリカの女優、メイ・ウェストとの比較表が雑誌に掲載されたほどでした。それによれば身長162cm、体重113ポンド(51kg)。BWHは略しますが、当時の女優の中でもめずらしい、いわゆる日本人離れしたシュッとしたシャン、最新鋭のモダンガールでした。頻繁に洋画が輸入されていた時代、大衆のあいだに浸透して憧憬を浴び、魅力をふりまいていた欧米の女優さんと拮抗できる日本女優が、はじめて誕生したのです。
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入江たか子は1911年生まれ。本名は東坊城英子といって、バリバリの華族出身です。姉は大正天皇の皇后付き女官で、敗戦後に長田幹彦が発表した『小説 天皇』(1949年3月)のモデルにもなりました。
そこにも入江たか子らしい妹が学習院出身とかでちらっと出てきますが、実際には父親の死後、家産を失いながらも文化学院に進学。最後の1年は姉に引き取られ、宮内省から通学したそうです。ま、それがどうした……。とは思いますが、欽定憲法下の日本では雲の上、たいへんなステイタスだったんでしょう。戦後も久我美子なんかは華族出身が売りとはいえ、もちろんそんな属性で人間や演技の質が決定するわけではありません。
ともあれ、かの女は卒業後、すでに映画監督の道を進んでいた兄の斡旋もあって女優の道に。賤業を選んだ元華族ですが、あっという間にトップ女優として認められ、その後は女優として、また現代劇としてはじめての独立プロ「入江ぷろだくしょん」を設立するなど、つねに一線で活躍しました。
そんなかの女の人気絶頂期に刊行されたのが、この『おもひで日記』(伊藤和夫編輯/峰岸義一装幀/キネマ新聞合名會社)です。初版は1932年に刊行されていますが、これはその翌年に出た増補改訂版(1933年12月)。初版は未入手なんですが、いまネット古書店で検索してみたら5万円……f(^_^;) いくらなんでもこれはさすがに手を出す必要がありませんね。そのうちもっと安く見つかることでしょう。それにこういうのは初版より増補版のほうが情報も多く、本自体もめずらしかったりするんじゃないでしょうか。

口絵が18ページ、生後10ヶ月のころから現在までの写真が掲載されていて、それに本文92ページ。小冊子の体裁で、半生の回想や出演作についての感想、出演映画リストといった内容です。おそらくファンクラブや後援会の類に向けられたもので、原稿もかの女が自分で書いたわけではないんでしょうが、当時の入江たか子を彷彿とさせるエピソードを以下にひとつ。
大阪出身の作家で、「銀座八丁」「日本三文オペラ」といった味わい深い短篇小説で知られる 武田麟太郎 が駆け出しのころ、デヴュウ間もない入江たか子にインタヴュウしたことがあるらしく、後年そのときの印象をエッセイに残しています。いわく、「入江氏は何をたづねても、はァと答へるきりでどうにも要領を得なかつた」。
そして「はァ、はァ」と相づちばかり打ってるかの女との対話を活写したあと、「大ていのインタビユーが机上で作られるのを知らなかつた単純で阿呆な私の惨めな恰好であつた」と自嘲的にしめくくっています。(「撮影所の知人」)
このへん、ちょっと前のアイドルなんかと同じで、たいていはライターが資料を集めてそれなりのものにつくりあげてたみたいですね。能筆で知られた岡田時彦の唯一の単著 『春秋満保魯志草紙』 でさえゴーストの手が入ってたそうですから、あとは推して知るべしでしょう。この当時にブログやらミクシィがあれば、「入江たか子日記」はどうなってたのか、やっぱり相づちだけだったりして(笑)。
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戦前戦中はトップ女優としての人気と名声を一身に集めた入江たか子も、戦後は相次ぐ兄の死や疾病によって失速してしまいます。そんなかの女がふたたび脚光を浴びたのは、前述の一連の化け猫映画、そして自伝『映画女優』(1957年5月/学風書院)の刊行によってでした。

本書はスマッシュヒットとなり、版元によれば5万部を突破したそうです。これも口述筆記のようですが、生い立ちからはじまって、近親相姦すれすれだった兄との関係、片岡千恵蔵、岡田時彦、中野英治といった当時のスター俳優とのラヴ・アフェア、結婚、疾病、化け猫女優への道を選択した苦渋の決断などなど、一時代を作った女優の赤裸々な告白が話題を呼んだのでした。これを読むと、黒澤明夫妻と親しかったことなんかもよくわかります。
この本はいまでも古本屋でよく見かけるので、実際にかなり売れたんでしょう。版元の学風書院はその後も女優や歌い手さんなどによるこの手の自伝をつぎつぎに刊行していったので、本書がそのハシリとして先鞭をつけたのでした。
---
入江たか子にはもう1冊単著があって、『秘帖』 と題されたそれは、1961年3月にえくらん社という美術系の版元から刊行されています。

ご覧の通り、貼函に収められた本体は和本の体裁になっています。しかし、これもまたよくわかんないのは、この本、いわゆる艶笑譚ばっかりを集めたもんなんです。要するにお色気ばなしが20ほど収められているだけの、90ページ足らずの本。目次からいくつか小見出しを拾ってみると、
「いろ手本忠臣蔵」「姫はじめ」「女の隠しどころ」「紅白の懐紙」
「女悦のはなし」「露出過度」「ねずみ綺譚」「おしりの美学」……。
むむむ……。なんでこういう本を刊行することになったのか、ほんとに自分が出版したくて出したのか。わたしはまったくその経緯についてつまびらかにしないんですが、どうなってるんでしょう? これも南部僑一郎のようなジャーナリストが関わってるのかしらん? 内容といい、装幀といい、好事家向きの1冊ですね。
もう15年ほど以前のこと、偶然わたしが古本屋で手にした本書の見返しには、「入江たか子」とサインがあり、そこに紙焼き写真も貼ってあったので、一も二もなくゲットしたのでした。これもちょくちょく古本屋で見る本です。

---
いま、もうひとつの ブログ で映画について勝手に盛り上がってたんで、その余勢を駆って、今夜は「入江たか子本」のエントリーとなってしまいました。
ここでピックアップしたいくつかの著書を読み直してみても、やはり戦前は「入江たか子」という作られたペルソナのもとで女優として生きていくので精一杯だった、という印象を受けます。ここのエピソードをくわしく紹介しませんでしたけど、おそらく自分でもよくわかんないうちに周りに動かされ、翻弄されてたんでしょうね。
そういうかの女が自立して自分の生を生きはじめるのは、むしろ戦後なんですが、そこではじめて多くの挫折を見ることになるのも、人生って数奇なもんだなあ——というあたりまえの感想を、あらためて抱いたことでした。しかしこういう人の自伝って、ほんとおもしろいな。
---
次回は夏川静江、志賀暁子の著書をピックアップする予定。そんなに時間をあけずに更新します。
かの女が83歳で亡くなったのは、阪神・淡路大震災に先立つこと3日、1995年1月12日のことでした。享年83。戦後は1953年の『怪談佐賀屋敷』以降、もっぱら「化け猫女優」としてのみ注目を浴びて不遇だったようですが、しかし、しかし。
どうです、ステキですよね。戦前の入江たか子は女優の中の女優、日本ではじめての近代的な女優として、唯一無二のオーラを放ってたんです。いま観てもまったくカッコイイじゃござんせんか。わたしの永遠のミューズなのです (^_^)v
とくに、このブログの 第2夜 でとりあげた 岡田時彦 との競演作『瀧の白糸』(溝口健二監督/1933年)は、入江の代表作としてしばしばリヴァイヴァル上映されるんで、ご覧になった方も少なくないでしょう。たしかいま、フィルムセンターのロビーにあるパンフレットにも登場してたはず。この作品自体は、女が男に尽くす浪花節みたいなもんじゃねえか、鏡花の作品としても駄作だろうと思わないでもないんですが、それはともかく一刻も早くDVD化してほしいもんである。
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ところで、いわゆる「スリーサイズ」というものがいつから日本に根付いたのか、わざわざ調べてみるほどの関心もなければ、なんで人がそれに関心を持つのかもわたしの理解の範囲外なんですけど、かの女がデヴュウしたときはそのプロポーションにも注目が集まって、ミロのヴィーナスやアメリカの女優、メイ・ウェストとの比較表が雑誌に掲載されたほどでした。それによれば身長162cm、体重113ポンド(51kg)。BWHは略しますが、当時の女優の中でもめずらしい、いわゆる日本人離れしたシュッとしたシャン、最新鋭のモダンガールでした。頻繁に洋画が輸入されていた時代、大衆のあいだに浸透して憧憬を浴び、魅力をふりまいていた欧米の女優さんと拮抗できる日本女優が、はじめて誕生したのです。
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入江たか子は1911年生まれ。本名は東坊城英子といって、バリバリの華族出身です。姉は大正天皇の皇后付き女官で、敗戦後に長田幹彦が発表した『小説 天皇』(1949年3月)のモデルにもなりました。
そこにも入江たか子らしい妹が学習院出身とかでちらっと出てきますが、実際には父親の死後、家産を失いながらも文化学院に進学。最後の1年は姉に引き取られ、宮内省から通学したそうです。ま、それがどうした……。とは思いますが、欽定憲法下の日本では雲の上、たいへんなステイタスだったんでしょう。戦後も久我美子なんかは華族出身が売りとはいえ、もちろんそんな属性で人間や演技の質が決定するわけではありません。
ともあれ、かの女は卒業後、すでに映画監督の道を進んでいた兄の斡旋もあって女優の道に。賤業を選んだ元華族ですが、あっという間にトップ女優として認められ、その後は女優として、また現代劇としてはじめての独立プロ「入江ぷろだくしょん」を設立するなど、つねに一線で活躍しました。
そんなかの女の人気絶頂期に刊行されたのが、この『おもひで日記』(伊藤和夫編輯/峰岸義一装幀/キネマ新聞合名會社)です。初版は1932年に刊行されていますが、これはその翌年に出た増補改訂版(1933年12月)。初版は未入手なんですが、いまネット古書店で検索してみたら5万円……f(^_^;) いくらなんでもこれはさすがに手を出す必要がありませんね。そのうちもっと安く見つかることでしょう。それにこういうのは初版より増補版のほうが情報も多く、本自体もめずらしかったりするんじゃないでしょうか。
口絵が18ページ、生後10ヶ月のころから現在までの写真が掲載されていて、それに本文92ページ。小冊子の体裁で、半生の回想や出演作についての感想、出演映画リストといった内容です。おそらくファンクラブや後援会の類に向けられたもので、原稿もかの女が自分で書いたわけではないんでしょうが、当時の入江たか子を彷彿とさせるエピソードを以下にひとつ。
大阪出身の作家で、「銀座八丁」「日本三文オペラ」といった味わい深い短篇小説で知られる 武田麟太郎 が駆け出しのころ、デヴュウ間もない入江たか子にインタヴュウしたことがあるらしく、後年そのときの印象をエッセイに残しています。いわく、「入江氏は何をたづねても、はァと答へるきりでどうにも要領を得なかつた」。
そして「はァ、はァ」と相づちばかり打ってるかの女との対話を活写したあと、「大ていのインタビユーが机上で作られるのを知らなかつた単純で阿呆な私の惨めな恰好であつた」と自嘲的にしめくくっています。(「撮影所の知人」)
このへん、ちょっと前のアイドルなんかと同じで、たいていはライターが資料を集めてそれなりのものにつくりあげてたみたいですね。能筆で知られた岡田時彦の唯一の単著 『春秋満保魯志草紙』 でさえゴーストの手が入ってたそうですから、あとは推して知るべしでしょう。この当時にブログやらミクシィがあれば、「入江たか子日記」はどうなってたのか、やっぱり相づちだけだったりして(笑)。
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戦前戦中はトップ女優としての人気と名声を一身に集めた入江たか子も、戦後は相次ぐ兄の死や疾病によって失速してしまいます。そんなかの女がふたたび脚光を浴びたのは、前述の一連の化け猫映画、そして自伝『映画女優』(1957年5月/学風書院)の刊行によってでした。
本書はスマッシュヒットとなり、版元によれば5万部を突破したそうです。これも口述筆記のようですが、生い立ちからはじまって、近親相姦すれすれだった兄との関係、片岡千恵蔵、岡田時彦、中野英治といった当時のスター俳優とのラヴ・アフェア、結婚、疾病、化け猫女優への道を選択した苦渋の決断などなど、一時代を作った女優の赤裸々な告白が話題を呼んだのでした。これを読むと、黒澤明夫妻と親しかったことなんかもよくわかります。
この本はいまでも古本屋でよく見かけるので、実際にかなり売れたんでしょう。版元の学風書院はその後も女優や歌い手さんなどによるこの手の自伝をつぎつぎに刊行していったので、本書がそのハシリとして先鞭をつけたのでした。
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入江たか子にはもう1冊単著があって、『秘帖』 と題されたそれは、1961年3月にえくらん社という美術系の版元から刊行されています。
ご覧の通り、貼函に収められた本体は和本の体裁になっています。しかし、これもまたよくわかんないのは、この本、いわゆる艶笑譚ばっかりを集めたもんなんです。要するにお色気ばなしが20ほど収められているだけの、90ページ足らずの本。目次からいくつか小見出しを拾ってみると、
「いろ手本忠臣蔵」「姫はじめ」「女の隠しどころ」「紅白の懐紙」
「女悦のはなし」「露出過度」「ねずみ綺譚」「おしりの美学」……。
むむむ……。なんでこういう本を刊行することになったのか、ほんとに自分が出版したくて出したのか。わたしはまったくその経緯についてつまびらかにしないんですが、どうなってるんでしょう? これも南部僑一郎のようなジャーナリストが関わってるのかしらん? 内容といい、装幀といい、好事家向きの1冊ですね。
もう15年ほど以前のこと、偶然わたしが古本屋で手にした本書の見返しには、「入江たか子」とサインがあり、そこに紙焼き写真も貼ってあったので、一も二もなくゲットしたのでした。これもちょくちょく古本屋で見る本です。
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いま、もうひとつの ブログ で映画について勝手に盛り上がってたんで、その余勢を駆って、今夜は「入江たか子本」のエントリーとなってしまいました。
ここでピックアップしたいくつかの著書を読み直してみても、やはり戦前は「入江たか子」という作られたペルソナのもとで女優として生きていくので精一杯だった、という印象を受けます。ここのエピソードをくわしく紹介しませんでしたけど、おそらく自分でもよくわかんないうちに周りに動かされ、翻弄されてたんでしょうね。
そういうかの女が自立して自分の生を生きはじめるのは、むしろ戦後なんですが、そこではじめて多くの挫折を見ることになるのも、人生って数奇なもんだなあ——というあたりまえの感想を、あらためて抱いたことでした。しかしこういう人の自伝って、ほんとおもしろいな。
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次回は夏川静江、志賀暁子の著書をピックアップする予定。そんなに時間をあけずに更新します。
ひさしく探していた古本を手にしたときのうれしさは、ちょっと名状しがたいもんがあります。「おおっ、ソーシソーアイだったか!」。1996年のことなのでもう10年以上前になりますが、この本を入手できたときのよろこびと驚きも、まさにそんな感じです。長いあいだ探してたからなあ。
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山岸藪鶯訳『空中軍艦』は、1895年——天皇の暦でいうところの明治29年7月、博文館より刊行されました(B6判/315頁)。状態もよくて、値段は——古書目録などを手にしたことがないとドン引きするかたもいるでしょうが、この際なので書いておくと、45,000円。これは安いと思ったし、いまも思ってます(最初の勤め人時代だったんで無理ができた)。しっかしそれ以上に、この表紙を目にしたときのインパクト。古書店の包装を解いたときはビックリしましたよ。*画像はすべてクリックで拡大します。

『空中軍艦』表紙
なぜこの本に関心を持ったかというと、訳者——山岸薮鴬は、このブログの第4夜でご紹介した詩人で文芸評論家、山岸外史の実父だから。山岸の伝記に本書のことがちらっと紹介されていて、ずっと気になってたんです。そこでは雑誌掲載みたいに書かれてましたが調べてもウラがとれず、単行本として刊行されてたのを知ったのでした。しかも19世紀末の世の中に“空中軍艦”ってどんなもんなんだろう! 興味を惹かれちゃうじゃありませんか。
物語は、革命を画策するアナーキストによって発明された空中軍艦(飛雲艦)が、近未来1920年代のロンドン上空にあらわれて爆裂弾を落としまくる、ビッグベンも大崩落——という、表紙のイラストから想像されるそのまんま。ハイドパークに集まる群衆を押しつぶしながら着陸するシーンなんかもイラスト付きで紹介されていて、ちょっと悪趣味といえなくもないんですけど。

原作は『 Hartmann the Anarchist ; or, the Doom of the Great City 』、1893年にアメリカとイギリスで出版されたようです。Hartmann というのはこのアナーキストの姓で、邦訳では日本人に比定して「耶間」になってます。わからないでもありませんが(笑)。邦訳は原書からわずか2年という早さで刊行されていますが、これは訳者山岸が米国に留学時代、原作者ダグラス・フォウセットと交流があったからだと、巻首の「凡例」に記されています。

上の左側が英国版、右のグレー表紙が米国版だそうですが、表紙の色以外はまったく同じなので、ほんとのとこは定かではありません。わかりにくいのですが、グレー表紙のほうにも赤表紙とおなじ、ビッグベン崩落のイラストが描かれています。ちょっと 9・11のツインタワーを思わせないでもありませんね。じっさい、9・11以後は海外のサイトなんかでも本書に言及するものがぐっと多くなったようで、わたしも 9・11のすこしあとに、本書をテキストにしてある研究会で発表したことがあります。9・11よりも WWI や WWII での空襲のイメージに近いのかなとも思いますが、大量破壊兵器時代の到来を予見していた、ということになるでしょうか。
ちなみにこの原書2冊は、クレジットカードというものを使用しないわたくしのために、畏友・沢ひかるさんの手をお借りしたんでした。たしかどちらも1万円台だったと思いますが、いま検索すると、ちょっと手が出ない価格になってますね……。
細密画風のイラストは原書でもふんだんに挿入されていますが、邦訳は別に描き直されているので、ふたつを見比べても楽しめます。

原書の口絵
原作者の Edward Douglas Fawcett(1866-1960)について、わたしはぜんぜん調べがついてません。どうも観念論哲学や詩、山岳、スポーツについての著作を残しているそうですが、いずれにせよこの『Hartmann』は、かなり若いころの作品だったということになります。
この奇想天外なSF小説のネタとなったのは、ロビュールという科学者がアルバトロス号で制空権を得るというジュール・ヴェルヌの『征服者ロビュール』(1866年)でしょう。あるいはコナン・ドイルの友人で、ホームズのパロディ作品でも知られるロバート・バー Robert Barrの短篇小説「ロンドン市の運命の日」(1891年)のような、一種の世紀末小説として構想されたのかもしれません。この『空中軍艦』は、日本でものちに押川春浪『空中大飛行艇』(1902年)、楓村居士『空中軍艦』(1907年)のような少年向けSF作品にも影響を与えています。
また、1970年代になって、アメリカでも何度かこの埋もれた小説『Hartmann』を再評価しようという試みがあったようで、SFやファンタジーの古典にスポットをあてる薄手の雑誌『Forgotten Fantasy』誌(1971年6月号)では、その前半部分が原書のイラストとともに再掲されました。安っぽい表紙も多少は現代風に書き直されています。

『Forgotten Fantasy』1971年6月号
また1975年には、ニュー・ヨークの Arno Press からリプリント刊行されています。このリプリントの存在は、研究会で報告したさいに栗原幸夫さんがネットで検索して教えてくださったのでした。表紙以外は原書そのままです。いまでも探せば比較的安価で手に入るんじゃないでしょうか。

リプリント版の扉
わたしが研究会で報告してから、日本でも邦訳『空中軍艦』を図版入りで紹介した本が刊行されたりしたようですが、訳者自身によって「省略せし所ところ直訳せし所翻案せし所敷衍せし所太はなはだ多くして殆ほとんど原作の痕を留めず」と書かれているのに、原書までさかのぼってふれていないのは、やはり研究として片手落ちといわざるを得ないでしょうね。
また、内容的にもこの小説がやっぱり一種のキワモノ、トンデモ本と位置づけられかねない要素を少なからず含んでいることは、しっかりと指摘しておかなければならないんでしょう。というのも、わたしがそれを肯うかどうかは別として、ひとは思想のためにひとを殺すこともあれば、殉じることもあるわけです。しかし、それを物語として他者に説得的に働きかけるには、そういう行為に及ぶ強烈な動機が問われるだろうと思っているからです。
ロープシンの有名なテロリスト小説の古典『蒼ざめたる馬』(1909)にしても、圧政に対する報復としての要人テロ、という大義名分を背景にしながらも、その要人の妻や幼い子どもたちも殺害することはできるか、テロによって世界の何が変わるのかということを「殺すものは殺される」というテーゼで自問自答せずにはおれなかった。
しかし一種の思想小説、テロリスト小説としての『空中軍艦』にはそういう問いかけはいっさいありません。制空権を得た飛雲艦がロンドンを破壊するのはなぜなのかが、ほとんど描かれないのである。革命、みたいなことを口にはするけれども、その内実がどういうものなのかはいっさい語られることがない。単に空から爆裂弾が降り注ぐシーン、ビッグベンが破壊されるシーンをスキャンダラスに(無邪気に)描いてみたかっただけ、とでもいわんばかりなのだ。これで“アナーキスト”を名乗っては、本物のアナーキストは承服できないだろう。人殺しはみなアナーキスト、アルカイダを単なるテロリストとしてしか見なさないのと大同小異なんである。そういう意味でも、やはりこの作品は、もうすこし具体的に当時の社会や歴史をふまえたうえで、検証され直されなければならないと思いますね。

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ところで、訳者の山岸藪鶯(本名山岸覺太郎)は1867年(慶應3年)に栃木県に生まれています。この年は夏目漱石、幸田露伴、南方熊楠、尾崎紅葉、齋藤緑雨などを生んだ江戸最後の1年にあたります。江戸の画家といえば葛飾北斎を思い浮かべますが、北斎の没年が1849年なので、なんと20年も経っていないわけです。ほとんど同時代人とさえ言えますね。わたしが生まれた1968年の20年前といえば、敗戦直後の1948年。そう考えると、1980年代からのこの20年間の日本および世界の変転というのも、なんとなく納得できるようなできないような……。
それはともかく、明治維新とほぼ同時に生を享けたかれは、若くして単身アメリカに留学。帰国後に尾崎紅葉の硯友社周辺の雑誌『東京文學』を創刊したり、当時の総合誌『太陽』にアメリカ西海岸のレポートや、翻訳小説なんかを掲載しています。『空中軍艦』の翻訳もこの時期のことです。そのいっぽうで大倉組に入社して、大倉喜八郎の片腕として実業界でも活躍しはじめる。息子の山岸外史は、のちに父のことをつぎのように回想しています。
「尤も父が俗にいうアメリカ帰りの明治期の実業人だったから、しかも祖父に反抗して十七歳で家を飛び出したような性格者でもあった。この父の意識はたしかにアメリカ的でさらに個人と自由を学んできていて、きわめて自由好きな人であったように思う。」(「禽獣・鳥魚・草木——薔薇の章(一)」)
『空中軍艦』もそうですが、山岸薮鴬の作品にはたしかに当時ようやく日本に紹介されはじめてきていた無政府主義や社会主義をアメリカで学び、紹介している風が見えないでもありません。その後、文学から離れていったかれは、日本の靴産業のはじまりを担った西村勝三や大倉喜八郎らが合同して1902年に創立した日本製靴株式会社(現在のリーガル)創立のさいには事務員として出席し、のちの1915年から23年までは社長もつとめました。江戸時代までは皮革産業は賤業とされていたし、靴産業の近代化の過程でも、なおそうした蔑視がつきまとっていたことから考えても、ビジネスマンとしての先見性と進取の気性みたいなものを備えていたのかもしれません。

古い名士録みたいなものを繙けば、山岸覚太郎の名前は日本製靴社長以外にもいくつかの取締役などで盛名を馳せていたことがうかがえます。しかしその後、なにかの事情で没落してしまったようで、邸宅なんかも払ったのち、1937年に没しています。『空中軍艦』について、あるいは息子の山岸外史についてというよりも、いまはむしろこの薮鴬山岸覚太郎というユニークな人物について、評伝でも書いてみたいですね。
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山岸藪鶯訳『空中軍艦』は、1895年——天皇の暦でいうところの明治29年7月、博文館より刊行されました(B6判/315頁)。状態もよくて、値段は——古書目録などを手にしたことがないとドン引きするかたもいるでしょうが、この際なので書いておくと、45,000円。これは安いと思ったし、いまも思ってます(最初の勤め人時代だったんで無理ができた)。しっかしそれ以上に、この表紙を目にしたときのインパクト。古書店の包装を解いたときはビックリしましたよ。*画像はすべてクリックで拡大します。
『空中軍艦』表紙
なぜこの本に関心を持ったかというと、訳者——山岸薮鴬は、このブログの第4夜でご紹介した詩人で文芸評論家、山岸外史の実父だから。山岸の伝記に本書のことがちらっと紹介されていて、ずっと気になってたんです。そこでは雑誌掲載みたいに書かれてましたが調べてもウラがとれず、単行本として刊行されてたのを知ったのでした。しかも19世紀末の世の中に“空中軍艦”ってどんなもんなんだろう! 興味を惹かれちゃうじゃありませんか。
物語は、革命を画策するアナーキストによって発明された空中軍艦(飛雲艦)が、近未来1920年代のロンドン上空にあらわれて爆裂弾を落としまくる、ビッグベンも大崩落——という、表紙のイラストから想像されるそのまんま。ハイドパークに集まる群衆を押しつぶしながら着陸するシーンなんかもイラスト付きで紹介されていて、ちょっと悪趣味といえなくもないんですけど。
原作は『 Hartmann the Anarchist ; or, the Doom of the Great City 』、1893年にアメリカとイギリスで出版されたようです。Hartmann というのはこのアナーキストの姓で、邦訳では日本人に比定して「耶間」になってます。わからないでもありませんが(笑)。邦訳は原書からわずか2年という早さで刊行されていますが、これは訳者山岸が米国に留学時代、原作者ダグラス・フォウセットと交流があったからだと、巻首の「凡例」に記されています。
上の左側が英国版、右のグレー表紙が米国版だそうですが、表紙の色以外はまったく同じなので、ほんとのとこは定かではありません。わかりにくいのですが、グレー表紙のほうにも赤表紙とおなじ、ビッグベン崩落のイラストが描かれています。ちょっと 9・11のツインタワーを思わせないでもありませんね。じっさい、9・11以後は海外のサイトなんかでも本書に言及するものがぐっと多くなったようで、わたしも 9・11のすこしあとに、本書をテキストにしてある研究会で発表したことがあります。9・11よりも WWI や WWII での空襲のイメージに近いのかなとも思いますが、大量破壊兵器時代の到来を予見していた、ということになるでしょうか。
ちなみにこの原書2冊は、クレジットカードというものを使用しないわたくしのために、畏友・沢ひかるさんの手をお借りしたんでした。たしかどちらも1万円台だったと思いますが、いま検索すると、ちょっと手が出ない価格になってますね……。
細密画風のイラストは原書でもふんだんに挿入されていますが、邦訳は別に描き直されているので、ふたつを見比べても楽しめます。
原書の口絵
原作者の Edward Douglas Fawcett(1866-1960)について、わたしはぜんぜん調べがついてません。どうも観念論哲学や詩、山岳、スポーツについての著作を残しているそうですが、いずれにせよこの『Hartmann』は、かなり若いころの作品だったということになります。
この奇想天外なSF小説のネタとなったのは、ロビュールという科学者がアルバトロス号で制空権を得るというジュール・ヴェルヌの『征服者ロビュール』(1866年)でしょう。あるいはコナン・ドイルの友人で、ホームズのパロディ作品でも知られるロバート・バー Robert Barrの短篇小説「ロンドン市の運命の日」(1891年)のような、一種の世紀末小説として構想されたのかもしれません。この『空中軍艦』は、日本でものちに押川春浪『空中大飛行艇』(1902年)、楓村居士『空中軍艦』(1907年)のような少年向けSF作品にも影響を与えています。
また、1970年代になって、アメリカでも何度かこの埋もれた小説『Hartmann』を再評価しようという試みがあったようで、SFやファンタジーの古典にスポットをあてる薄手の雑誌『Forgotten Fantasy』誌(1971年6月号)では、その前半部分が原書のイラストとともに再掲されました。安っぽい表紙も多少は現代風に書き直されています。
『Forgotten Fantasy』1971年6月号
また1975年には、ニュー・ヨークの Arno Press からリプリント刊行されています。このリプリントの存在は、研究会で報告したさいに栗原幸夫さんがネットで検索して教えてくださったのでした。表紙以外は原書そのままです。いまでも探せば比較的安価で手に入るんじゃないでしょうか。
リプリント版の扉
わたしが研究会で報告してから、日本でも邦訳『空中軍艦』を図版入りで紹介した本が刊行されたりしたようですが、訳者自身によって「省略せし所ところ直訳せし所翻案せし所敷衍せし所太はなはだ多くして殆ほとんど原作の痕を留めず」と書かれているのに、原書までさかのぼってふれていないのは、やはり研究として片手落ちといわざるを得ないでしょうね。
また、内容的にもこの小説がやっぱり一種のキワモノ、トンデモ本と位置づけられかねない要素を少なからず含んでいることは、しっかりと指摘しておかなければならないんでしょう。というのも、わたしがそれを肯うかどうかは別として、ひとは思想のためにひとを殺すこともあれば、殉じることもあるわけです。しかし、それを物語として他者に説得的に働きかけるには、そういう行為に及ぶ強烈な動機が問われるだろうと思っているからです。
ロープシンの有名なテロリスト小説の古典『蒼ざめたる馬』(1909)にしても、圧政に対する報復としての要人テロ、という大義名分を背景にしながらも、その要人の妻や幼い子どもたちも殺害することはできるか、テロによって世界の何が変わるのかということを「殺すものは殺される」というテーゼで自問自答せずにはおれなかった。
しかし一種の思想小説、テロリスト小説としての『空中軍艦』にはそういう問いかけはいっさいありません。制空権を得た飛雲艦がロンドンを破壊するのはなぜなのかが、ほとんど描かれないのである。革命、みたいなことを口にはするけれども、その内実がどういうものなのかはいっさい語られることがない。単に空から爆裂弾が降り注ぐシーン、ビッグベンが破壊されるシーンをスキャンダラスに(無邪気に)描いてみたかっただけ、とでもいわんばかりなのだ。これで“アナーキスト”を名乗っては、本物のアナーキストは承服できないだろう。人殺しはみなアナーキスト、アルカイダを単なるテロリストとしてしか見なさないのと大同小異なんである。そういう意味でも、やはりこの作品は、もうすこし具体的に当時の社会や歴史をふまえたうえで、検証され直されなければならないと思いますね。
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ところで、訳者の山岸藪鶯(本名山岸覺太郎)は1867年(慶應3年)に栃木県に生まれています。この年は夏目漱石、幸田露伴、南方熊楠、尾崎紅葉、齋藤緑雨などを生んだ江戸最後の1年にあたります。江戸の画家といえば葛飾北斎を思い浮かべますが、北斎の没年が1849年なので、なんと20年も経っていないわけです。ほとんど同時代人とさえ言えますね。わたしが生まれた1968年の20年前といえば、敗戦直後の1948年。そう考えると、1980年代からのこの20年間の日本および世界の変転というのも、なんとなく納得できるようなできないような……。
それはともかく、明治維新とほぼ同時に生を享けたかれは、若くして単身アメリカに留学。帰国後に尾崎紅葉の硯友社周辺の雑誌『東京文學』を創刊したり、当時の総合誌『太陽』にアメリカ西海岸のレポートや、翻訳小説なんかを掲載しています。『空中軍艦』の翻訳もこの時期のことです。そのいっぽうで大倉組に入社して、大倉喜八郎の片腕として実業界でも活躍しはじめる。息子の山岸外史は、のちに父のことをつぎのように回想しています。
「尤も父が俗にいうアメリカ帰りの明治期の実業人だったから、しかも祖父に反抗して十七歳で家を飛び出したような性格者でもあった。この父の意識はたしかにアメリカ的でさらに個人と自由を学んできていて、きわめて自由好きな人であったように思う。」(「禽獣・鳥魚・草木——薔薇の章(一)」)
『空中軍艦』もそうですが、山岸薮鴬の作品にはたしかに当時ようやく日本に紹介されはじめてきていた無政府主義や社会主義をアメリカで学び、紹介している風が見えないでもありません。その後、文学から離れていったかれは、日本の靴産業のはじまりを担った西村勝三や大倉喜八郎らが合同して1902年に創立した日本製靴株式会社(現在のリーガル)創立のさいには事務員として出席し、のちの1915年から23年までは社長もつとめました。江戸時代までは皮革産業は賤業とされていたし、靴産業の近代化の過程でも、なおそうした蔑視がつきまとっていたことから考えても、ビジネスマンとしての先見性と進取の気性みたいなものを備えていたのかもしれません。
古い名士録みたいなものを繙けば、山岸覚太郎の名前は日本製靴社長以外にもいくつかの取締役などで盛名を馳せていたことがうかがえます。しかしその後、なにかの事情で没落してしまったようで、邸宅なんかも払ったのち、1937年に没しています。『空中軍艦』について、あるいは息子の山岸外史についてというよりも、いまはむしろこの薮鴬山岸覚太郎というユニークな人物について、評伝でも書いてみたいですね。
参考文献
池内規行『評伝・山岸外史』(万有企画)
『STEPS 日本製靴の歩み 1902〜1989』ほか
池内規行『評伝・山岸外史』(万有企画)
『STEPS 日本製靴の歩み 1902〜1989』ほか
今回もちと長い……。
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ずいぶん以前から、里村欣三(1902-45)というプロレタリア作家で戦争作家について関心があって、大学院時代の紀要や、日本寄せ場学会編『寄せ場文献精読306選』(2004年/れんが書房新社)などで言及してきたことでした。
ただ、従来の先行研究がそうであったように、徴兵忌避→プロレタリア文学運動に参加→転向→従軍作家として活躍→敗戦間際にフィリッピンで戦死、という里村欣三のドラマチックな生涯につられて、求道者的な、ナイーヴなとらえかたをしてしまうと、作家としてのかれの表現を読み間違えてしまうのではないかと思ってて、ちょっと論じるのには慎重になっているところがあります。
とはいえ材料はあるので、今夜はかれの転向小説であり戦争小説でもある『第二の人生』3部作(1940年〜41年/河出書房)についてご紹介することにしましょう。
どうせ3部作なんで3冊だけじゃねえのか、とお思いでしょうが、いえいえちがうんです。中身はおんなじなのに複雑なことになってるんで、もっと多い(笑)。そんだけこっちも集め甲斐があるってもんです。ちなみに、なんで中身がおんなじなのに、そんなに買い集めなければならないのかという問いに対しては、いつもこのように答えています。——中身以外がちがうから!
わたしが里村欣三という作家に関心を持ちはじめたころは、かれの著書を古書目録で見ることもめったになく、集めるのにも苦労したもんでしたが、ネットで古書が検索できるようになって、ずいぶん入手しやすくなりました。そのぶんかなり高価にもなりましたけどね……。

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『第二の人生』という作品は、40歳を前に1937年の「支那事変」に応召した主人公の元プロレタリア作家が、中国大陸へわたるまでの葛藤を描いたものです。この3部作では、かれが従軍を経て心の底から転向していく過程が描かれていて、それが全編を通底するモティーフとなっています(正確には「となるはずでした」)。
召集の赤紙を手にした時、兵六は何がなしほつとした。助かつたと思つた。思想を捨て主義から離れ、生活の信條を失つて野良犬のやうな暗闇を彷徨してゐる彼に、微かな光が射したやうに思へたのだ。思想的な立場を完全に喪失した彼は、唯々として上官の命令に服し、きびしい軍紀の下に素直に服従できる身軽さを感じ、胸を叩いて喜ぶのであつた。/だが、この感情は結局、詐りの誇張であつた。己の思想的な行き詰りを、自力によつて解決する能力がなく、召集といふ不可避的な事情の下に打開されることを当て込んだ、ひどく横着な自己欺瞞であつた。だからこそ、ちよつとした異常な事件や事実にぶつかつても忽ち、その仮面は剥がれるのであつた。(『第二の人生』より)
『第二の人生』は、作者が戦場から帰還したあとの1940年4月16日に、河出書房の長篇小説叢書というシリーズの一冊として刊行されました(以下、これを第一部とする)。
この第一部の初版は現在でも「発禁本」を特集した書籍でとりあげられ、しばしば発売禁止処分に付された本として扱われています。事実、5月10日付けで安寧秩序妨害で発売禁止処分になった、と国立国会図書館収集整理部編集の『発禁図書目録——一九四五年以前』(1980年3月/紀伊国屋書店発売)などには記載されています。
ところが、奥付によればそのまったく同じ5月10日に、素行の悪い特務兵が軍場を殴りつける問題のシーン4ページ分が削除されただけで、装幀なども初版と変わらない第4版が刊行されています。つまり「発禁」といっても流通や出荷そのものが停止したわけではなく、その後もしっかり版を重ねていたのです。

◎第一部初版の函(左/帯付)と本体。4版も同じ装幀
しかも7月12日付けの第7版、さらに9月10日付けの第9版が手許にあります。この7版と9版の本文は、巻末の広告にいたるまで4版と同じなのですが、猪子斗示夫の装幀にかかる外函と本体表紙の意匠だけがあらためられて発行されています。

◎第7版の函(左)と本体。第9版も同じ装幀、本文
これだけの版本が流通していたのは、もちろん「第二の人生」ということばがちょっとした流行語になるほど読者を獲得していたからで、同じ年の7月4日より1週間、新築地劇団で舞台化されたことからもそれはうかがうことができます。下は新築地劇団のパンフ2種。画像をクリックして拡大すると公演日が異なってますが、正しくは7月4日が初日でした。

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こうしたブームのなか、第一部から約半年後の1940年10月28日付けで、『第二の人生 第二部』が刊行されます。ここでようやく主人公が戦場へ放り出されるのですが、それ以上に重要なのは、主人公・並川兵六の姿をかりて、作者・里村欣三が徴兵を忌避した逃走者だったこと、満州を放浪した果てにプロレタリア文学運動の担い手となったことなどが回想されている点です。
しかし、なんといっても戦意昂揚を目的とした小説でそんな時代の詳細を語ることも困難だったのか、(おそらく版元の自主規制により)おもに前半部分で10個所53行の削除のあとが見られます。さきほどもちらっとふれたように、里村は1945年の2月にフィリッピンで戦死してしまうので、かれ自身の口からこうした過去の体験が語ることが可能になるチャンスは、このあと2度と訪れませんでした……。教訓めいたことをいえば、やはり書く機会があるときは、遠慮せずに躊躇わず書かなきゃいかん、ということですね。

◎第二部の初版函(左)と、やけに美麗な本体。
ハイティーンのころから「思想運動」の渦中に飛び込んだ里村欣三(本名=前川二享)は、実家を飛び出して市電の車掌として働いていたころ、当局の弾圧に逆らって傷害事件を起こし、逮捕されます。その後、徴兵検査を受けて甲種合格となるのですが、入営せずに逃亡をつづけ、「苦力(クーリー)」という底辺労働者として満洲を放浪したといいます。
そんなかれが里村欣三というペンネームで『文藝戰線』誌上にデヴュウしたのが、1924年11月号のこと。「富川町から」というタイトルで、東京の下層社会、貧民窟での生活を描いたものとして注目されました。さらに満洲放浪時代の体験を描いた小説「苦力頭の表情」(『文藝戰線』1926年6月号)によって、かれは葉山嘉樹や林房雄らとともに、新しい時代のプロレタリア文学の担い手として認められることになります。が、しかし、しだいにプロレタリア文学運動への弾圧が激しくなり、作品を発表する場も失われていくなかで、郷里の岡山へ戻って自首してしまう。
1935年7月、本名の前川二享に戻ったかれが、あらためて徴兵検査を受けると「第二乙種合格」でした。55日間の兵役生活を終え、土方や煉瓦工場で働いているときに「支那事変」が勃発し、赤紙によって召集されたのでした。
そういう経歴と業績を持つ里村欣三が、戦争体験を通してそれまでの自己を凝視しつつ、戦争作家へと翼賛していく過程を描いたのが、この『第二の人生』3部作なんです。
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さて、第一部のリリースからおよそ1年を経た1941年5月15日、完結篇ともなる第三部が、『徐州戰——第二の人生 第三部』として刊行されました。
このタイトルがなによりも雄弁に物語っているように、このとき「第二の人生」という、いわば「ポスト転向」時代の生き方を自問自答するモティーフは後景へと追いやられ、名実ともに「戦争小説」へと成り上がったのです。すでにベストセラーとなって出版業界を席巻していた火野葦平の『麦と兵隊』(1938年/改造社)の舞台となった徐州攻略戦は、「徐州徐州と人馬は進む」と東海林太郎のうたう同名曲でポピュラーだったこともあり、函のデザインも、タイトルをぐっと強調するものとなりました。

◎左より第三部の函、本体、折り込みチラシ
しかし、変更されたのは第三部のタイトルだけではなかったのです。1941年9月15日——すなわち真珠湾攻撃の約3ヶ月前——には、この『徐州戰』に符節をあわせるように、第一部を『津浦戰線』、第二部を『黄河作戰』と改題、装幀も「3部作」らしいトータルなものに変更して再刊されたのでした。

◎第一部改題・改装『津浦戰線』(左)と第二部改題・改装『黄河作戦』
本文はそれぞれ直近の版と異動なし
じつはこの第二部に関しては、函がなくて、粗末なカヴァーがついたヴァージョンが存在します。これは本体も奥付も初版とまったく同じなんですが、カヴァーには『黄河戰線』と、どの版本とも異なるタイトルが記されている点が要注目です。カヴァーの紙質も戦争末期か敗戦直後っぽかったりするので、いつリリースされたのか、正確なところが判断しづらいんですね……。ふつうに考えれば初版と『黄河作戰』のあいだなんでしょうが、はたして。

ともあれ、こうして『徐州戰』のみならず、『第二の人生』3部作のコンセプトが「転向」から「戦争」へと変節していったのです。これはその後の短い生涯を戦争作家として生きた里村欣三の歩みを考えるうえでも、決定的な現象だったといえるでしょう。
里村の戦友で、中央公論社の編集者だった堺誠一郎の回想によれば、『第二の人生』はもともと作者によって『兵馬』と命名されました。それを当時、版元の河出書房で編集顧問をしていた中島健蔵が『第二の人生』に変えたといいます。こうして『第二の人生』3部作は、第一部の刊行から1年以上を経た時代状況、出版社、作者、そしてこれを支持した読者の結託によって、「転向小説」から「戦争小説」へと、第二の人生を歩みだしたのでした。

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さてさて、またまた長文となってしまいました……。今回は大学院時代の紀要に書いた論文から、古書/書誌に関係する部分のみを抜粋、リライトしてみました。紀要なんて読者がいないも同然だし、なにも業績づくりのためにだけ書いたわけじゃないんで、眠らせといたって意味ないもんね。とはいえ、ここまでリライトするだけでも、結構骨が折れたことでした。
ところで、なにせ3部作の長篇小説なので、あらすじについてはほとんどオミットしてしまいましたが、この作品の最大の欠点は、読んでてつまんないことですな……_| ̄|○
主人公が「輜重兵」、いわばロジスティクス担当なんで馬の話ばっかし、というのも理由のひとつでしょうし、転向小説であると同時に戦争小説でもあるので、自分の過去と正面から向き合うような表現がゆるされなかったのかもしれませんが、それにしても退屈……。
この作品にかぎらず、里村欣三の小説の少なくないものは、「文学的な感興」とはほど遠いものであることは認めざるを得ない。その点については、かれの終生の同志だった葉山嘉樹の表現とは比べるべくもありません。これはたとえどんな感動的な生き方をしていたとしても、作家である以上は致命的です。
ただ、かれが一貫して世界を底辺下層の視座から見つめていたことだけは、もっと評価しなければならないでしょう。『第二の人生』でもその第三部にようやく兆しが見えるのですが、兆しだけで終わっています。そこをどうやって掬いあげるか。かれが作家としてデヴュウするきっかけとなった、初期の貧民窟ルポルタージュなどを通して、もう少し読み直されてもいいかもしれません。いずれにせよ、かれの表現のもっとも優れた部分を等身大で考察するような再評価にはまだまだ至っていない、というのが率直な感想でしょうか。
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【ややこしかったんで、おまけ】
■『第二の人生』リリース一覧
『第二の人生』1940年4月16日/初版/函/帯
5月10日/安寧秩序妨害で発売禁止処分
5月10日/第4版(削除:pp.147-9行〜152-12行)
7月12日/第7版/函/異装(本文は第4版に同じ)
9月10日/第9版/函(第7版に同じ)
『第二の人生 第二部』1940年10月28日/初版/函
『第二の人生 黄河戰線』1940年10月28日/初版/カヴァー
『徐州戰』1941年5月15日/函/帯
『津浦作戰』1941年9月15日/初版/函/『第二の人生』改題=第4版に同じ
『黄河作戰』1941年9月15日/初版/函/『第二の人生 第二部』改題
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ずいぶん以前から、里村欣三(1902-45)というプロレタリア作家で戦争作家について関心があって、大学院時代の紀要や、日本寄せ場学会編『寄せ場文献精読306選』(2004年/れんが書房新社)などで言及してきたことでした。
ただ、従来の先行研究がそうであったように、徴兵忌避→プロレタリア文学運動に参加→転向→従軍作家として活躍→敗戦間際にフィリッピンで戦死、という里村欣三のドラマチックな生涯につられて、求道者的な、ナイーヴなとらえかたをしてしまうと、作家としてのかれの表現を読み間違えてしまうのではないかと思ってて、ちょっと論じるのには慎重になっているところがあります。
とはいえ材料はあるので、今夜はかれの転向小説であり戦争小説でもある『第二の人生』3部作(1940年〜41年/河出書房)についてご紹介することにしましょう。
どうせ3部作なんで3冊だけじゃねえのか、とお思いでしょうが、いえいえちがうんです。中身はおんなじなのに複雑なことになってるんで、もっと多い(笑)。そんだけこっちも集め甲斐があるってもんです。ちなみに、なんで中身がおんなじなのに、そんなに買い集めなければならないのかという問いに対しては、いつもこのように答えています。——中身以外がちがうから!
わたしが里村欣三という作家に関心を持ちはじめたころは、かれの著書を古書目録で見ることもめったになく、集めるのにも苦労したもんでしたが、ネットで古書が検索できるようになって、ずいぶん入手しやすくなりました。そのぶんかなり高価にもなりましたけどね……。
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『第二の人生』という作品は、40歳を前に1937年の「支那事変」に応召した主人公の元プロレタリア作家が、中国大陸へわたるまでの葛藤を描いたものです。この3部作では、かれが従軍を経て心の底から転向していく過程が描かれていて、それが全編を通底するモティーフとなっています(正確には「となるはずでした」)。
召集の赤紙を手にした時、兵六は何がなしほつとした。助かつたと思つた。思想を捨て主義から離れ、生活の信條を失つて野良犬のやうな暗闇を彷徨してゐる彼に、微かな光が射したやうに思へたのだ。思想的な立場を完全に喪失した彼は、唯々として上官の命令に服し、きびしい軍紀の下に素直に服従できる身軽さを感じ、胸を叩いて喜ぶのであつた。/だが、この感情は結局、詐りの誇張であつた。己の思想的な行き詰りを、自力によつて解決する能力がなく、召集といふ不可避的な事情の下に打開されることを当て込んだ、ひどく横着な自己欺瞞であつた。だからこそ、ちよつとした異常な事件や事実にぶつかつても忽ち、その仮面は剥がれるのであつた。(『第二の人生』より)
『第二の人生』は、作者が戦場から帰還したあとの1940年4月16日に、河出書房の長篇小説叢書というシリーズの一冊として刊行されました(以下、これを第一部とする)。
この第一部の初版は現在でも「発禁本」を特集した書籍でとりあげられ、しばしば発売禁止処分に付された本として扱われています。事実、5月10日付けで安寧秩序妨害で発売禁止処分になった、と国立国会図書館収集整理部編集の『発禁図書目録——一九四五年以前』(1980年3月/紀伊国屋書店発売)などには記載されています。
ところが、奥付によればそのまったく同じ5月10日に、素行の悪い特務兵が軍場を殴りつける問題のシーン4ページ分が削除されただけで、装幀なども初版と変わらない第4版が刊行されています。つまり「発禁」といっても流通や出荷そのものが停止したわけではなく、その後もしっかり版を重ねていたのです。
◎第一部初版の函(左/帯付)と本体。4版も同じ装幀
しかも7月12日付けの第7版、さらに9月10日付けの第9版が手許にあります。この7版と9版の本文は、巻末の広告にいたるまで4版と同じなのですが、猪子斗示夫の装幀にかかる外函と本体表紙の意匠だけがあらためられて発行されています。
◎第7版の函(左)と本体。第9版も同じ装幀、本文
これだけの版本が流通していたのは、もちろん「第二の人生」ということばがちょっとした流行語になるほど読者を獲得していたからで、同じ年の7月4日より1週間、新築地劇団で舞台化されたことからもそれはうかがうことができます。下は新築地劇団のパンフ2種。画像をクリックして拡大すると公演日が異なってますが、正しくは7月4日が初日でした。
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こうしたブームのなか、第一部から約半年後の1940年10月28日付けで、『第二の人生 第二部』が刊行されます。ここでようやく主人公が戦場へ放り出されるのですが、それ以上に重要なのは、主人公・並川兵六の姿をかりて、作者・里村欣三が徴兵を忌避した逃走者だったこと、満州を放浪した果てにプロレタリア文学運動の担い手となったことなどが回想されている点です。
しかし、なんといっても戦意昂揚を目的とした小説でそんな時代の詳細を語ることも困難だったのか、(おそらく版元の自主規制により)おもに前半部分で10個所53行の削除のあとが見られます。さきほどもちらっとふれたように、里村は1945年の2月にフィリッピンで戦死してしまうので、かれ自身の口からこうした過去の体験が語ることが可能になるチャンスは、このあと2度と訪れませんでした……。教訓めいたことをいえば、やはり書く機会があるときは、遠慮せずに躊躇わず書かなきゃいかん、ということですね。
◎第二部の初版函(左)と、やけに美麗な本体。
ハイティーンのころから「思想運動」の渦中に飛び込んだ里村欣三(本名=前川二享)は、実家を飛び出して市電の車掌として働いていたころ、当局の弾圧に逆らって傷害事件を起こし、逮捕されます。その後、徴兵検査を受けて甲種合格となるのですが、入営せずに逃亡をつづけ、「苦力(クーリー)」という底辺労働者として満洲を放浪したといいます。
そんなかれが里村欣三というペンネームで『文藝戰線』誌上にデヴュウしたのが、1924年11月号のこと。「富川町から」というタイトルで、東京の下層社会、貧民窟での生活を描いたものとして注目されました。さらに満洲放浪時代の体験を描いた小説「苦力頭の表情」(『文藝戰線』1926年6月号)によって、かれは葉山嘉樹や林房雄らとともに、新しい時代のプロレタリア文学の担い手として認められることになります。が、しかし、しだいにプロレタリア文学運動への弾圧が激しくなり、作品を発表する場も失われていくなかで、郷里の岡山へ戻って自首してしまう。
1935年7月、本名の前川二享に戻ったかれが、あらためて徴兵検査を受けると「第二乙種合格」でした。55日間の兵役生活を終え、土方や煉瓦工場で働いているときに「支那事変」が勃発し、赤紙によって召集されたのでした。
そういう経歴と業績を持つ里村欣三が、戦争体験を通してそれまでの自己を凝視しつつ、戦争作家へと翼賛していく過程を描いたのが、この『第二の人生』3部作なんです。
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さて、第一部のリリースからおよそ1年を経た1941年5月15日、完結篇ともなる第三部が、『徐州戰——第二の人生 第三部』として刊行されました。
このタイトルがなによりも雄弁に物語っているように、このとき「第二の人生」という、いわば「ポスト転向」時代の生き方を自問自答するモティーフは後景へと追いやられ、名実ともに「戦争小説」へと成り上がったのです。すでにベストセラーとなって出版業界を席巻していた火野葦平の『麦と兵隊』(1938年/改造社)の舞台となった徐州攻略戦は、「徐州徐州と人馬は進む」と東海林太郎のうたう同名曲でポピュラーだったこともあり、函のデザインも、タイトルをぐっと強調するものとなりました。
◎左より第三部の函、本体、折り込みチラシ
しかし、変更されたのは第三部のタイトルだけではなかったのです。1941年9月15日——すなわち真珠湾攻撃の約3ヶ月前——には、この『徐州戰』に符節をあわせるように、第一部を『津浦戰線』、第二部を『黄河作戰』と改題、装幀も「3部作」らしいトータルなものに変更して再刊されたのでした。
◎第一部改題・改装『津浦戰線』(左)と第二部改題・改装『黄河作戦』
本文はそれぞれ直近の版と異動なし
じつはこの第二部に関しては、函がなくて、粗末なカヴァーがついたヴァージョンが存在します。これは本体も奥付も初版とまったく同じなんですが、カヴァーには『黄河戰線』と、どの版本とも異なるタイトルが記されている点が要注目です。カヴァーの紙質も戦争末期か敗戦直後っぽかったりするので、いつリリースされたのか、正確なところが判断しづらいんですね……。ふつうに考えれば初版と『黄河作戰』のあいだなんでしょうが、はたして。
ともあれ、こうして『徐州戰』のみならず、『第二の人生』3部作のコンセプトが「転向」から「戦争」へと変節していったのです。これはその後の短い生涯を戦争作家として生きた里村欣三の歩みを考えるうえでも、決定的な現象だったといえるでしょう。
里村の戦友で、中央公論社の編集者だった堺誠一郎の回想によれば、『第二の人生』はもともと作者によって『兵馬』と命名されました。それを当時、版元の河出書房で編集顧問をしていた中島健蔵が『第二の人生』に変えたといいます。こうして『第二の人生』3部作は、第一部の刊行から1年以上を経た時代状況、出版社、作者、そしてこれを支持した読者の結託によって、「転向小説」から「戦争小説」へと、第二の人生を歩みだしたのでした。
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さてさて、またまた長文となってしまいました……。今回は大学院時代の紀要に書いた論文から、古書/書誌に関係する部分のみを抜粋、リライトしてみました。紀要なんて読者がいないも同然だし、なにも業績づくりのためにだけ書いたわけじゃないんで、眠らせといたって意味ないもんね。とはいえ、ここまでリライトするだけでも、結構骨が折れたことでした。
ところで、なにせ3部作の長篇小説なので、あらすじについてはほとんどオミットしてしまいましたが、この作品の最大の欠点は、読んでてつまんないことですな……_| ̄|○
主人公が「輜重兵」、いわばロジスティクス担当なんで馬の話ばっかし、というのも理由のひとつでしょうし、転向小説であると同時に戦争小説でもあるので、自分の過去と正面から向き合うような表現がゆるされなかったのかもしれませんが、それにしても退屈……。
この作品にかぎらず、里村欣三の小説の少なくないものは、「文学的な感興」とはほど遠いものであることは認めざるを得ない。その点については、かれの終生の同志だった葉山嘉樹の表現とは比べるべくもありません。これはたとえどんな感動的な生き方をしていたとしても、作家である以上は致命的です。
ただ、かれが一貫して世界を底辺下層の視座から見つめていたことだけは、もっと評価しなければならないでしょう。『第二の人生』でもその第三部にようやく兆しが見えるのですが、兆しだけで終わっています。そこをどうやって掬いあげるか。かれが作家としてデヴュウするきっかけとなった、初期の貧民窟ルポルタージュなどを通して、もう少し読み直されてもいいかもしれません。いずれにせよ、かれの表現のもっとも優れた部分を等身大で考察するような再評価にはまだまだ至っていない、というのが率直な感想でしょうか。
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【ややこしかったんで、おまけ】
■『第二の人生』リリース一覧
『第二の人生』1940年4月16日/初版/函/帯
5月10日/安寧秩序妨害で発売禁止処分
5月10日/第4版(削除:pp.147-9行〜152-12行)
7月12日/第7版/函/異装(本文は第4版に同じ)
9月10日/第9版/函(第7版に同じ)
『第二の人生 第二部』1940年10月28日/初版/函
『第二の人生 黄河戰線』1940年10月28日/初版/カヴァー
『徐州戰』1941年5月15日/函/帯
『津浦作戰』1941年9月15日/初版/函/『第二の人生』改題=第4版に同じ
『黄河作戰』1941年9月15日/初版/函/『第二の人生 第二部』改題
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